2012年5月11日金曜日

江戸への道(1)


2012年5月11日
伊豆半島赤沢
晴れ
気温20.5℃
東南東の風2m
水温19.3℃
透視度8~12m

ここ3日間、東伊豆は見事な凪。水温は相変わらず19度台と高く。透視度は今一歩スッキリとはしていないけど、とりたてて悪くもない。十分に見える。
可愛いクマノミでも見れば、気分は夏の様だ。



さて、今回は歴史ロマンあふれるお話。

漁業で潜ると、ダイビングポイントではない海に潜る事が多い。
伊東市赤沢というところは、そもそも小さな面積の集落だ。それでいて山奥に向かって長く伸びている地域なので、海岸に接しているのはせいぜい2km程度。隣の八幡野や富戸に比べれば驚くほどに狭い範囲だ。
その、狭い範囲だ。と思う海の水深1mから20m程度までの帯で海岸線を全て潜り、海底を見つめて漁業をすることになる。

1年の6分の1は赤沢の浅海を漁業で潜っているのだから、殆ど全てを知っているのではないかと思われる方もいるかもしれない。自分でも、結構憶えているとは思うようになって来るのだけど、なかなかどうして、そんなに海は狭いもんじゃない。

海の中は陸と違い、何キロも先が見える訳ではない。せいぜい10m、良く見えて25mほどだ。それに、貝類を採る漁業なので、結構下を見ているし。
綺麗に折り目正しくジグザグして全ての海底を見ているという訳ではないので、予想外の風景に出会ったり、面白い物を見つけたりする時が結構ある。

写真は3年ほど前に見つけた物体。
お酒の升のような形をしていて、一辺は1.5m位ある大きな物だ。
波打ち際から転石が沖へと続き、砂地に変わる境目の所にたたずんでいたのだけど、貝を採る目的で潜るのだから、砂っぽいこの辺りには貝がいないだろうと思って、僕はこの辺りをカットして泳いでいたんだろう、こんな大きな物なのに、まったく気付かなかった。

あきらか人の手によって作られた物だ。
これが何なのかを知りたくて、デジカメで写真を撮って船長に見せたところ、「そんな物あるのも知らなかった」と言う。そして、海女さんであった船長の奥さんは、「あるのは知ってたけど、漁礁かなと思ってた、これ何なの」だそうだ。
僕は潜水調査の仕事もしているので、いくらか漁礁のイメージと言うのは持っているのだけど、こんな形は人工漁礁じゃぁないだろう。
何で出来ているのだろうと思って、少し削ってみたのだけど、コンクリートではなく、ひと固まりの石から削り出されているようだ。わざわざ天然の石を切りだして升の形に整え、海に漁礁として沈めるなんて話は聞いた事が無い。


良く見てみると、側面にはノミで削った跡のような、斜めのラインが見える。やっぱりこれはコンクリートではなく、自然の石を削ったものだ。

半世紀以上も赤沢で漁業をしている船長と奥さんが知らないというのは困った。すでにヒントが無さ過ぎる…
「さて、これがいった何物か、どうやって調べようか」と思っていると、船長が、「伊豆新聞に写真を見せたらいいよ」と言う。
伊豆新聞は地元の超ローカル新聞。記事は全て伊豆の出来ごとであり、首相が変わるような出来事が起こっても、紙面の端にも一切掲載されないという頑固一徹伊豆密着新聞だ。
「なるほど、それは何かわかるかもしれない!」と思い、早速伊豆新聞にメールで写真を送ってみた。

しばらく待つ事。
結果としては…
「わからないので伊東市の学芸員にも聞いてみます」
あまりにも残念な結果だった。




その後、伊豆新聞からは、何の連絡もなかったので、あてのないヒントを捜してネット上を彷徨って、「石製 枡」などと検索していた。
すると、「石枡」という言葉があるらしい事がわかり、石枡で見事なヒットをした。
「石枡」は「飲み水を溜めて不純物を沈殿して浄化するための枡の形をした四角い石の事」。とある。確かに、湧水を溜めてある共同水道みないなのは、四角い枡形だ、そう言えばうちの近くにもある。
今では湧水の利用なんて少なくなったうえにコンクリート製が多いけど、水道なんてない昔は、石枡が溢れていただろうし、コンクリートなんてなかっただろうから、石を削り出した石枡が沢山あったんだろう。

それだけっではなく、新たな事実もわかた。
多摩川と江戸城を結ぶ上水道であった「玉川上水」の水路のパーツとして使われたものも石枡というのだそうだ。
 千代田区の清水谷公園に、ビル建設の際に出土した本物の玉川上水の石枡が展示してあるそうで、WEBには写真も出ていたが、これがまた似ているんだ。




なるほど、1603年から行われた江戸城改築では、城壁の石を伊豆半島から大量に切り出し、江戸へと船で輸送したという事はすでに知られている事実だ。
玉川上水を建設が始まったのは、1653年。莫大な量の石が運ばれた江戸城改築から50年しか差が無い。伊豆から船で重量のある石を運ぶと言うノウハウは、そのまま引き継がれているという可能性もあるだろう。

とりあえず、この石は水を溜めるものではあるようで、大きな可能性は2つ。
  (1)発見地点の沿岸の集落で湧水を溜める石枡として使っていたもの。
  (2)玉川上水の石枡として江戸へ運ばれるはずだったもの。

僕的には2だったら面白いなと思うので、どうしても2の方向で考えるのだけど、1を否定できる考えがある。
発見地点は赤沢の集落から東伊豆町へ1キロほど離れた所にあり、陸地は断崖絶壁がつづいている地形だというところだ。
今でこそ国道が海岸線を通ってはいるけど、民家は一切ない。さらに国道さえなかったというんだから、とても人が棲む様な場所ではなkったはずだ。
人が住まない所なのだから、飲み水のための石枡があったということは考えにくいんじゃないだろうか。

ほら、2に近くなる。
この海底の石枡は玉川上水のパーツになるはずだったものではないだろうか?、ということになる。
「これは、行って見てみよう!」
僕は江戸の千代田区紀尾井町、清水谷公園へ行って、本物の玉川上水の石枡を見てみる事にした。


赤坂見附駅から徒歩5分ほど。赤プリの近くにひっそりとある公園が清水谷公園だ。
参議院の議員宿舎の隣にある公園なので、若者がたむろする事は無く、ハイヤーのドライバーの憩いの場になっているひっそりとした公園だ。


公園の真中に、一応柵に囲まれて石枡は鎮座していた。
第一印象は。

「似てる…」

ある特徴がガッツリ似てるのだ。
石枡の横にある丸い突起がわかるだろうか?綺麗に加工された四角い枡なのに、丸いデベソがある。

これは赤沢の枡。
丸いデベソがあるのが解るだろうか。右手が本体で左へ飛びだしている。
綺麗な四角い枡なのに、丸いデベソがある。

彫った感じは清水谷公園の石枡の方が荒々しい感じだったけど、感じはとても似ている。デベソは清水谷公園のは2か所だったけど、赤沢のは1か所と、数は違うとはいえ特徴は一致だ。
大きな違いは清水谷公園の石枡の縁には凸凹の溝があること。
どうも4段に重ねて使用する物らしいのだけど、上下の枡がずれないようにしっかりとはまり込む溝が掘ってある。さらに、底があるのは一つだけで、あとの3つには底が無い。

この違いを想像するに、伊豆で切り出した枡はザックリとした製品であり、縁の凹凸や底のあるなしは、江戸に運ばれてから現場合わせで調整されたんではないかと思うわけだ。

もちろん、どうしても(2)の「赤沢の枡は玉川上水の石枡」方向で考えが運ぶ。
僕はどうしても面白い方向へ話を転ばそうと展開する性格だ。



さて、似ているとは思ったものの、これをどうするかがわからない。
石を分析して産地を照合するったって、そんな資金もつても無いし、ましてや清水谷公園の石枡を勝手に削り取るわけにはいかない。

さぁ、どうしようか…


と、ここまでが一昨年の話。
続きはまた。



2 件のコメント:

  1. お久しぶりです。
    久しぶりにゆっくり読んでいました。
    おもしろい発見ですね!
    確かに玉川上水の学習で石枡?のようなものを見たことがあります。武蔵野の台地は水が乏しく、玉川兄弟が先頭にたって、長い年月をかけて、水を引いたのを教えました。

    伊豆から石を運んだなんて、知りませんでした。
    運ぶ途中で、船が沈没?して、石枡が落ちた?
    (1)ではなさそうですしねー。
    想像しただけで、ワクワクしてきます。(ちなみに私社会科出身です)

    続きを楽しみにしています。

    返信削除
  2. ワクワクする?でしょー!
    江戸城改築のときは、3000隻ね石船が江戸と伊豆を往復してたらしいよ。運ばれなかった石は海岸にゴロゴロしてるよ。
    でも、どうやって積んだのかはいまいちわからないの。なぜか当時の資料はほとんどないのね。
    400年たつと、きれいさっぱり歴史に埋まってしまうもんらしいよ。
    きっと驚くほど賑やかな伊豆だったんだろうね。

    返信削除